2021年


ーーーー10/5−−−− 娘のマツタケ体験


 
8月に次女が帰省した。一緒に登山することを希望していたが、連日の天気が思わしくなく、高山の登山は諦めた。代わりに、マツタケ山を案内した。のんびり歩いて2時間ほどのハイキングである。頂上の「もの見岩」という巨大な花崗岩の塊にも登って、安曇野の眺望を楽しんだ。

 9月の下旬に、再び次女はやって来て、一週間ほど滞在した。地面にマツタケが生えている光景を見たいと言うので、またマツタケ山に連れて行った。それまでに発見されたマツタケには金網の籠を被せて保存してあるので、行けば必ず見ることができる。

 登る途中で、昨年見付けたシロに立ち寄って、「去年はここで何本か採れたんだよ」と説明した。その場で、私はマツタケらしき物を一つ発見した。近付いて調べていたら、少し離れた場所に立っていた娘が、「これマツタケと違う?」と言って、地面に頭を出していたキノコを指差した。間違いなくマツタケだった。娘にとっては、人生初のマツタケ発見の瞬間だった。

 発見したマツタケは、とりあえず籠を被せるというのがグループのルールになっているので、そのように処理をした。その後も、山の中を上り下りして、既に発見されたマツタケを見せて回った。この日新たに発見したものもあったが、先ほどの2本を含めて4本だけだった。

 翌々日、今度は私がマツタケを採りに行くのに同行したいと言った。この日は採集するのが目的だったので、マツタケ収穫の現場に立ち会いたいとの希望だった。朝6時に自宅を出て、山に向かった。

 最初の一本は私が見付けた。娘を呼んで、やり方を教えて、抜かせてやった。マツタケを抜くという機会は、普通の人だったらなかなか無い。貴重な経験になったと思う。そしてしばらくしたら、なんと今度は娘がマツタケを発見した。かなりラッキーなことである。それとも、彼女はこういう事に才能があるのだろうか? 春に山菜採りに連れて行ったことがあるが、その時も次々に見付けて、ちょっと驚かされた。

 この日は2時間歩いて、3本採った。盛りを過ぎているので、数が少ないのは仕方ない。そのうちの1本、一番品質の良いものは、娘が採ったものだった。マツタケは、半日歩いても一本も見付からないことがあるくらい採集するのが難しいキノコである。初心者が、ほんの2時間あまりで1本採り、しかもそれが上物とは、繰り返しになるがかなりのラッキーであった。

 採れたマツタケはパックに詰めて商品の体裁を整え、地元の農産物販売所で売るというのが、グループとして今シーズンの決まりになっている。しかしこの日は、事情があって販売ができなかった。そのような事態であることを知って、買い取ることを申し出た。メンバーは半額で買い取ることができる。自分で採ってきた物を買い取るというのは気の毒だとの声もメンバーの中にあったが、ルールだから従うのは当然だ。

 夕食に松茸ご飯と焼きマツタケにして食べた。今年初めてのマツタケは、美味しかった。自分で採ったものを口にするのだから、娘はなおのこと嬉しそうだった。娘に良い思い出を与えることができて、私も嬉しかった。

 子供たちがまだ小さかった頃、私は何かをしてあげた時に、「少しは父親らしいことの一つもしたいと思ってね」と、芝居がかったもの言いをしたことがあった。それを聞き憶えて、次女は何か欲しい物とか、してもらいたい事があると、私に向かって、「少しは父親らしいことのひとつもしてよ!」と言ったものだった。それから20年以上経ったが、今回マツタケ山を舞台に、久しぶりに少しは父親らしいことをしてあげられたような気がした。




ーーー10/12−− カレーぶちまけ事件


 
40年ほど前のことである。勤めていた会社の山岳部で、会津駒ヶ岳、八海山方面へ登山に行った。パーティーを二つに分けてそれぞれの山に登り、下山してから駒の湯という温泉宿に集合して、打ち上げをした。その宿に着くと、秘湯を守る会とかいう看板が掛かっていた。私が、「さすがはひなびた雰囲気で、ヒユ度が高いなぁ」と言うと、若い女性部員らが 「大竹さん、あれはヒユではなくて、ヒトウと読むんじゃないですか?」と疑問を呈した。他のメンバーもそうだそうだと言って笑ったので、私は面目が潰れた。

 その山岳部は、私が入部する以前から、活発に山行に参加する女性部員が何人かいた。若者の良い趣味と言えば、読書と音楽鑑賞とハイキングと言われた時代の、名残りの様相を呈していた。私が入部して何年か経つと、こんどは急に若い女性が増えだして、山行に花を添えた。この時も何人かの女性部員が参加したが、中に部員ではないが友達に誘われて参加したN子さんがいた。

 宿に入って、夕食の準備をした。素泊まりだったので、自分たちで食事を作らねばならなかったのである。食事当番が調理部屋へ行って、カレーを作り始めた。他の部員は、宿泊部屋に集まって、楽しく談笑をしていた。部員が山の中で絵葉書を描き、差し入れをくれた人に出すというのが、山岳部の習慣だった。描かれた絵葉書の中から送るものを選び、メンバー全員がお礼の言葉を書き添え、下山したら郵便ポストに投函するのである。描かれた絵葉書の品評会を、わいわい言いながらテントの中でやったり、下山地の温泉でやったりしたのだが、それは楽しい時間だった。この時も、夕食前のひと時を、その楽しい作業に当てていたのだったと思う。

 私は3、4名の食事当番の一人だった。カレーがほぼ出来上がり、大きな鍋の中でグツグツいい出した時に、うら若いN子さんが調理部屋に現れた。彼女は初めて参加したので、全ての事を目新しく感じたに違いない。山岳部の自炊に興味を持って、見に来たのだろう。板の間の床の上に置いたコンロの上に乗っている鍋を眺め、「美味しそうですね」と言いながら、お玉でカレー汁をかき回し始めた。ここに思わぬ落とし穴があった。登山用のコンロは、コンパクトにできているので、安定性に欠けるのである。それに気付かず、グイとお玉でかき回された鍋は、バランスを崩してコンロから床に落ち、ひっくり返って中身を床の上にぶちまけた。

 その場の空気は、一瞬凍りついた。次の瞬間、私は 「大丈夫、まだ食べられる!」と叫び、その場にあったチリトリなどを使って、床の上に広がったカレーを回収するよう指示をした。食事当番一同は、素早くカレーをすくい集め、鍋に戻した。そしてもう一度グツグツ煮立たせた。衛生上の配慮である。一方、床には雑巾をかけて綺麗にした。アクシデントの痕跡は、跡形も無く消え去った。

 カレーは鍋に入れたまま食堂に運ばれ、部員全員に配られた。夕食が始まると、皆は「美味しいね」と言ってくれた。食事当番の労をねぎらうための、言わばお決まりの言葉である。しかし真実を知っている食事当番にとっては、いつもと違う聞こえ方がした。そして「そうでしょう?」と言って、お互いの顔を見た。

 少々うしろめたくも滑稽な、若かりし頃の思い出である。




ーーー10/19−−−  山行スケッチ絵葉書の思い出


 
先週の記事で、山行スケッチ絵葉書のことに触れた。ある山行の記憶を辿るうちに、たまたま思い出したから書いたのだが、書き進むうちにとても懐かしくなった。たしか我が家に絵葉書のアルバムがあったはずだと探してみたら、見付かった。

 勤めていた会社で、文化祭が開催された。山岳部も何らかの形で参加して、存在感をアピールしようと考えた。そこで浮かんだアイデアが、山行絵葉書スケッチの展示であった。葉書は全て部員個人の手元にある。それらを借りて、大きな紙に張り並べて、展示しようというのである。多くの部員が趣旨に賛同し、協力してくれた。中には「大切にしているものですから、必ず返して下さい」というコメント付きで貸してくれた人もいた。展示は、社員食堂の脇の廊下で行った。部員はもとより、それ以外の社員も多く立ち止まって見てくれ、反響は十分だった。

 展示が終わり、葉書を返却する前に、写真に撮ろうと思い立った。カメラ屋で写真撮影用の電球を買ってきて、250枚ほどの葉書を半日がかりで撮影した。出来上がった写真をアルバム帳にまとめて、ソ連の工事現場に出張している部員のF氏へ送った。F氏はとても喜んでくれた。

 私が会社を辞めて信州に移ってしばらくした頃、山行スケッチのことを思い出した。そこで気心の知れた部員のi君に連絡をして、どこかにネガが残っているはずだから、プリントして送ってくれるように頼んだ。撮影した本人である私が、プリントもネガも保管していなかったのである。i君は手を尽くしてネガを探してくれたが、ついに発見できなかった。事態が行き詰ったとき、F氏が自分が所有するアルバムから再生したらどうかと提案したそうである。そこである部員の知り合いのプロのカメラマンに依頼して、一枚ずつ撮り直しをし、それをアルバムに仕上げてくれたのであった。そういう予想外のお騒がせを経て出来上がったのが、私の手元にある一冊なのである。

 あらためて眺めて見ると、とても懐かしい。昔日の山の日々が、つい先日のように思い出され、情景が目に浮かぶ。絵は山を描いたものが大半だが、他に高山植物や登山の道具、山小屋や温泉風景なども描かれている。絵の技術として上手下手はあるが、そんなことは関係無しに、どれも個性が豊かで楽しく、見飽きない。

 上に述べた社内での展示。当時私の上司に、絵を描くのが得意で、品評会で入選などをしていた人がいた。その人に感想を聞いたら、「とても素晴らしい絵ばかりだ」と言った。そして、その理由として 「山に登って感動した心が、その場でストレートに表現されているからだ。そういうことは、ぼくらには真似できない」と言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 




























ーーー10/26−−−  ちっちゃなスズメ


 
20年以上前の、今頃の時期の事だったか。南会津の材木屋へ出掛けた帰り道、日光から沼田へ抜けた。戦場ケ原から金精峠を越えて、下りに差し掛かると、小雪が舞っていた。

 材木を積んだトラックは、しずしずと山道を下って行った。時折サーッと雪が降りかかり、車窓の視界を遮った。前後に車は無く、私の車だけが路上の雪に轍を刻んでいた。道路の両側には、雪が降り積もった木々が立ち並び、行く手に続く森林は、見渡す限りモノトーンの寂しい風景だった。そんなシチュエーションが、激しい孤独感をもたらした。折しもカーオーディオからは、PPM(ピーター、ポール&マリー)の「ちっちゃなスズメ」が流れていた。その哀しげな曲を聴くうちに、寂しさは最高潮となった。

 突然、妙な衝動が沸き起こった。ハンドルをグイッと切って、トラックごと谷間へ落ちてしまいたくなったのである。つまり自殺行為の衝動である。こういうのを、魔が差すと言うのだろうか。

 次の瞬間、我に反ってその心理状態から立ち直った。危ないところだった。

 今でもPPMの「ちっちゃなスズメ」を聴くと、あの時の恐ろしい衝動を思い出し、ゾッとする。